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岡崎城

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岡崎城(おかざきじょう)は、愛知県岡崎市康生町にある平山城です。別名を竜城・竜ヶ城といい、徳川家康の生誕地として知られています。現在の天守は1959年(昭和34年)に復元されたものです[1]。

概要

  • 所在地:愛知県岡崎市康生町561-1(岡崎城公園内)[2]
  • 別名:竜城・竜ヶ城[1]
  • 種別:平山城[1]
  • 築城:享徳元年(1452)〜康正元年(1455)頃、西郷頼嗣(稠頼)による[2]
  • 城主:松平氏。江戸時代は本多氏(康重系統)・水野氏・松平(松井)氏・本多氏(忠勝系統)などの譜代大名[1]
  • 天守:1959年3月30日復元(鉄筋コンクリート造3層5階、設計は城戸久)[1]
  • 指定:岡崎市指定史跡(1962年6月15日指定、2016年12月26日追加指定。面積98,908平方メートル)[2]

年表

  • 享徳元年(1452)〜康正元年(1455)頃 - 西郷頼嗣(稠頼)が明大寺の地に築城[1][2]
  • 1531年(享禄4年) - 松平清康(家康の祖父)が現在の位置に移す[1]
  • 1542年(天文11年)12月26日 - 徳川家康が生まれる[1]
  • 1560年(永禄3年) - 桶狭間の戦いの後、19歳で自立[1]
  • 1570年(元亀元年) - 家康が本拠を浜松へ移し、嫡男の信康が岡崎城主となる[1]
  • 1592年(文禄元年) - 城主の田中吉政が、東・北・西に総延長4.7kmの総堀を整備[1]
  • 1609年(慶長14年) - 東海道が城下に引き入れられ、伝馬町ができる[1]
  • 1617年(元和3年) - 本多康紀のとき、三層三階地下一階の複合天守が建つ[1]
  • 1873年(明治6年) - 廃城令により天守などの建物が取り壊される[2]
  • 1959年(昭和34年)3月30日 - 天守が復元される[1]
  • 1962年(昭和37年)6月15日 - 岡崎城跡として市の史跡に指定[2]

特徴・当時の様子

  • 江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、石高は5万石前後ながら、格の高い譜代大名が城主を務めた[1]
  • 家康が6歳で織田信秀、8歳で今川義元の人質となり、桶狭間の戦いを機に自立してから天下統一への基礎を固めた城でもある[1]
  • 田中吉政は城郭を大規模に整備拡張し、城下に東海道を引き入れた[1]

ビスタライン

大樹寺(岡崎城の約3km北)から岡崎城天守を望む歴史的眺望を「ビスタライン」と呼びます。1641年(寛永18年)、3代将軍徳川家光が家康の十七回忌に大樹寺の伽藍を造営した際、本堂から三門・総門を通してその中央に岡崎城が望めるよう配置したことに由来します。歴代の岡崎城主は天守から大樹寺に向かって毎日拝礼したと伝えられています[3]。

約380年続く眺望は、法や条例の規制がないなかで、沿線の住民が建物の高さに配慮することで守られてきました。市は2018年7月1日から、高さ規制を勧告から命令へ移しています[3]。

桜

岡崎城公園一帯と伊賀川堤には約800本のソメイヨシノがあり、春には「岡崎の桜まつり」が開かれます。期間中の18:00〜21:00には夜桜照明が行われ、その情景は「東海随一」といわれます[4]。

思い出・証言(未検証)

この欄は、利用者の思い出・証言をもとに書かれています。 書籍・新聞・公式資料による裏付けは取れていません。事実として引用する際はご注意ください。裏付けとなる資料をご存じの方は、出典への追加をお願いします。
  • (募集中)

未解決・情報募集

  • 昭和34年の天守復元について、設計・工事の記録や当時の写真
  • 元和3年に建てられた複合天守(三層三階地下一階)の絵図・写真
  • 桜まつり、遠足、待ち合わせなど、岡崎城にまつわる個人的な思い出

出典・参考資料

  1. ↑ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 1.15 1.16 岡崎市観光協会「沿革|岡崎城(天守閣)」
  2. ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 岡崎市「市指定:史跡 岡崎城跡」
  3. ↑ 3.0 3.1 岡崎市「ビスタライン(大樹寺から岡崎城を望む歴史的眺望)」
  4. ↑ 岡崎市観光協会「桜まつり」

外部リンク