旧本多忠次邸
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旧本多忠次邸(きゅうほんだただつぐてい)は、愛知県岡崎市欠町の東公園内にある建築物です。スパニッシュ様式を基調とした邸宅で、国の登録有形文化財(登録名称「旧本多家住宅主屋」)に登録されています[1][2]。

概要
- 所在地:愛知県岡崎市欠町字足延40-1(東公園内)[2]
- 建築:1932年(昭和7年)、東京・世田谷の約7,100平方メートルの敷地に建てられた住宅と壁泉の一部を移築・復原[2]
- 様式:スパニッシュ様式[1]
- 指定:国の登録有形文化財(2014年(平成26年)10月7日登録。設計は白鳳社建築工務所、木造2階建て)[3]
- 開館:2012年(平成24年)7月6日、移築・復原のうえ一般公開[3]
- 開館時間:9時〜17時(入館は16時30分まで)。休館日は月曜日(祝日の場合は翌日以降の最初の平日)、12月29日〜1月3日、展示替期間[1]
- 入館料:無料(企画展等の開催時は有料)[1]
- 電話:0564-23-5015[2]
建築の由来
旧本多忠次邸は、本多忠次(1896〜1999年)が建てた住宅です。忠次は、徳川家康の四天王の一人・本多忠勝を始祖とする旧岡崎藩主本多家の子孫にあたります[2]。
忠次の父・本多家17代の忠敬は、宮内省式部官や貴族院議員を歴任する一方、岡崎の城址公園整備や教育振興に貢献した人物でした。忠次は学習院を経て、1932年に東京・世田谷に邸宅を構えました[1]。
忠次は東京帝国大学文科大学哲学科を卒業した人物で、敷地は二子玉川や柿の木坂など各地を物色した末、1931年(昭和6年)に世田谷(現・世田谷区野沢、環七通り沿い)に決めた。建物の竣工は1932年頃、庭園を含めた全体の完成は1933年とされるが、忠次が実際に住み始めたのは1940年(昭和15年)だった。太平洋戦争中の東京大空襲では戦災を免れたものの、戦後の1946年(昭和21年)には進駐軍に接収され、連合国軍最高司令官マッカーサーの顧問弁護士カーペンター夫妻の住居となった時期がある。1952年(昭和27年)に返還され、忠次は1999年(平成11年)に亡くなるまで住み続けた。その後、建物は岡崎市東公園に移築・復原され、2012年(平成24年)7月6日に一般公開が始まった[3]。
見どころ
アクセス
思い出・証言(未検証)
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